随分と挑発的なタイトルになりましたこと、先ずはお詫び申し上げます。
何故にこんなことを思ったのかというと、久々に岡本太郎の著書を再読し、色々と考えるうちに自然とそうなってしまったということになる。その理由と「別に伝統芸能でもいいんじゃね?」という開き直りを述べていきたいと思う。
先ず、私は岡本太郎という画家が、画家としても思想家としても好きである。とある化学メーカーに就職して間もない頃、氏の『自分の中に毒を持て―あなたは"常識人間"を捨てられるか』というエッセイ(これはベストセラーにもなっているのでお読みになった方も多いと思いますが)を読んで、とにかく氏が発するパワーに圧倒されてしまって、全くもって今の生き方では人生を生きていることにならない、と思い至り、ここには書けないが色々あって、今は香川県のとある場所で化学品法規制を専門とする職に就いているという事である。
斯様に私にとって岡本太郎は、私の人生に影響という名の毒を多大に与えた人であるので、特別な存在なのだ。よって氏の著作も色々と読んでいるのだが、最近『今日の芸術』という美術を中心にした芸術論の文庫を読み返した。岡本太郎の著作の特徴として、とにかく人の倫理観とか常識を根本から揺さぶってくることが挙げられる。なので絶対不変の価値観(個人個人が持つ正義と換言しても良いかも知れない)が備わっている人は、岡本太郎の思想とバッティングする場合にはカンカンに怒り心頭に発すことになるのは自然のことだろう。逆に私の様に自分が100%正しいと言うような強い意志をとても持ち合わせいない人間には、まるでその言葉一つ一つがバットで頭をガーンッ!と殴られる様な衝撃で襲い掛かってくる。
さて、プレマスはこの辺にして本題に進みたい。
岡本太郎は『今日の芸術』の中で、芸術と芸能は全く違うモノだと論じている。芸術は「創造」であり、同じことを繰り返してはいけない。昨日すでにやったことと同じことをやるのでは意味がない、と。
一方、芸能は古い型を受け継ぎ、それを磨きに磨いて達するものだという。
芸術が過去を振り捨てて新しさに賭けてゆくのに対し、芸能はあくまでも保持しようとする、のだと。例えば芸能は「何々流の開祖」だとか「家元」などの制度があり、その枠からはみ出る行い・芸術表現は許されない。芸風が師匠に近くなればなるほど、上達であると見做される。しかし、今日ゴッホやピカソとそっくり似た作品を作る人間が「上手い」か、とすれば勿論そんなことはない。芸術は同じことをした時点で芸術ではないから、という訳だ。
これはジャズをやっている人間、特に50~60代のモダンジャズに拘泥している人間には耳の痛い話ではなかろうか。つまり例えば私、である。この時期のジャズがとかく好きで、同時期のプレイヤーを特集したライブの企画を定期的に行っている。過去のプレイヤーのエッセンスを研究し、自分のものとして、再現する。岡本太郎に言わせればそれは芸術ではなく芸能なのだろう。
勿論、ジャズも現在日本で活動するトッププレイヤーの方々は、自身のジャズを更新し新たな芸術を創造されているのだろうと思う。但し、いわゆるジャズの黄金時代のサウンドが好きでこだわりを持っている方も多々いらっしゃるはずだ。
私自身、現代的なジャズは好きだ。例えば、トランぺッターだったら、最近ではMarquis HillやAvishai Cohen、Matthew Halsall、Charlie Porter、Mat Jodrell、Paul Williamson等が好きだし、良く聴いている。さりとてハードバップにはハードバップ時代の抗いようのない魅力がある、というのも事実である。何より聴いていて、楽しくて、リラックスできて、興奮できる。
確かに今この現代において、70年前ものフォーマットの音楽をやっているのは伝統芸能かも知れない。特定のプレイヤーを模倣し、再現する行為は、日本の伝統芸能の型、家元制度にも近しいのかも知れない。それでも「楽しいからいいじゃないか。だって好きなんだもん」とは胸を張って言いたいと、これからも思う。逆に「俺はジャズをやっている芸術家だぜ」とは口が裂けても言えないのだが……。
今後の演奏予定
新型コロナウイルスの影響により現在のところ未定です。
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