ジャズと全然関係ないが『もののけ姫』を全力で語ってみる

今回は全くジャズに関係がない話題になるが、ご了承頂きたい。

というのも、先週末リバイバル上映中の『もののけ姫』を映画館に観に行った。『もののけ姫』は1997年に封切られた作品で、当時私は9歳。まだ映画に興味を示す歳ではなかったため、本作も当然映画館では観ていない。

その後、ご存知の通り、ハリポタ&ジブリ大好き(これについては深い功罪があると思う)金曜ロードショーによって、何度もテレビ放映されているため、私が『もののけ姫』を観たのはテレビ放送で、ということになる。

私は心から『もののけ姫』という作品を愛している。自慢じゃないが、映画は好きなので記録しているだけでも通算2000本は観ているが、本作はその中でもベスト9に選んでいる作品だ。別に鑑賞回数=その映画に詳しい、という訳ではないのだが、今までに50回以上は確実に観ている。(100回以上かというと自信がないが、観ていても可笑しくないとは思う)

3枚組のDVDは勿論、同じく3枚組のメイキングドキュメント『もののけ姫はこうして生まれた』も何度も見直している。

さて、そんな私が初めて『もののけ姫』をスクリーンで鑑賞できた喜びは筆舌に尽くしがたい。その感想をつづりたいのだが、どこから話して良いかわからないので、とりあえずキャラクター毎に書いていこうと思う。本作はとにかくキャラクター造形・設定が素晴らしいので、よい試みだと思う。


アシタカ

旅立ってから一貫して争いを嫌い・停めようと試みるナイスガイ。双方が正義のために戦っている様をまざまざと見せつけられつつも、停戦に向け努力する。リアリストからすると劇中でも突っ込まれてる通り甘ちゃんなのだが、如何なる状況でも争わない道を希求することは誰にでも出来ることではない。宮崎作品の主人公の青年は一貫して真っ直ぐに描かれるが、戦争という舞台でもブレない姿が人の心を打つのだろう。尚、宮崎映画と言えば美味そうな食事描写が印象的だが、彼は序盤から中盤にかけて主人公であるにも関わらず飯を食らう描写が殆どない。ヤックルに給餌する時に自分も口に含む位である。彼が明確に何かを食すのはサンに助けられた後、口移しで食べさせてもらうシーンだ。食事シーンというのは観客にキャラクターを身近な存在として感じてもらいたい時に使わられることが多い。生物が生きる上で必要とする行動だからだ。恐らくこのシーンまでアシタカの存在を突き放したかったのだろう。


サン

彼女は本作のタイトル『もののけ姫』その人である通り、本作の顔であるキャラクターなのだが、「野生動物に育てられた少女」「段々と人間を理解していく」という割りかし典型的な設定を持っている。他のキャラクターが甚だ個性的で重層的な感情を持っている中では少し単純とも思える人物像である。しかし全キャラクターの中で、最も成長(つまり変化)の幅が大きいのも彼女と言える。

因みにサンは宮崎映画歴代作品の中ではダントツで笑顔のシーンが少ないヒロインと言える。多少はあるが飽くまで微笑み程度なのだが、実はとある媒体でキャラクターのイメージボードが載っているのだが、ここで満面の笑みを彼女を見ることが出来る。


エボシ御前

『もののけ姫』が『風の谷のナウシカ』の実質的リメイク、という指摘は各評論で良く見られるものの一つであるが、それを踏まえるならば、エボシ御前は『ナウシカ』でのトルメキア公国王女クシャナに相当するキャラクターである。特に漫画版のクシャナにより近い。エボシ御前は実に魅力的なキャラクターで、大たたらを経営する手腕、サンとも互角に渡り合う剣術、帝や地侍を天秤にかけ立ち回る策謀力、そしてハンセン病患者を引き取り看病する慈愛など、およそリーダーに必要なすべてを兼ね揃えたスーパーウーマンだ。大たたらに暮らす者たちは彼女を真に尊敬していることが随所でさりげなく描かれる。

そんな彼女だが善人としては描かれないのが、実に宮崎式だと言える。恐らくエボシは徹底したリアリストであり、ハンセン病患者も別に完全な善意として助けた訳ではなくキチンと石火矢の改良という労働を課している。売られた女たちを雇い入れ、本来ならば「鉄を汚す」としてタブーになっている、たたら精練に従事させているのも全く同様の理由だ。しかし理由がどうであれ彼ら彼女らにとってエボシは生来の救世主に違いない。そんなエボシがもののけ側から見るとれっきとした森を削る侵略者、つまり悪であるのがミソである。物事の善悪は決して一元論では片付けられない問題なのだ。


ジコ坊

恐らく朝廷直轄の機関、師匠連の一員であり、唐傘連を率いている正体不明の坊主。エボシに従う、現中国の明産の銃を扱う石火矢衆も実は彼の管理下にある。物語の裏で暗躍し、人間ともののけの争いを促しているため、一番の悪役とも言えるのだが、彼を飄々とした捉えどころのない人物として描くところに宮崎駿の天才性が窺える。悪い奴ほど、彼の様に一見柔和に見えたりする者なのだ。ドキュメントでは彼を演じる小林薫に対し、宮崎駿は「どっか嘘くささが漂っているキャラクター。人の道を説きながら、非道いことも平気でやる。酷いことやるときも堂々と理屈を述べる。」

そんな彼も物語内で描かれる権力のトップにいるわけではなく、本作の一番の悪役であろう天皇(帝)は一切登場しない。思えば宮崎駿の初期の冒険活劇モノ『風の谷のナウシカ』『未来少年コナン』『天空の城ラピュタ』『ルパン三世 セカンドシーズン』では明確な悪の親玉を描いていた。そこから20余年を経て明確な悪は表舞台には登場しない、そんな風に思想が変化したのだろう。そしてその変化はこの時代にピタリと合っている様に思える。


モロの君

サンの母親である犬神。サンとアシタカが分かり合える存在として登場するのに対比するように、エボシ御前と決して分かり合えない宿敵として登場する。モロの君はもののけ側を代表するキャラクターであり、ハナから人間との共存など無理だと考えており、青二才であるアシタカの考えに嘲り笑いながらも、サンにはアシタカと共に生きる道も提示するなど、自分の生き方を既に変えられる年齢ではないが、子には生き方を選択させてくれる、という正に理想的な母親像である。その様な奥深いキャラクター像を表現できているのは、日本を代表する盟友、美輪明宏が声を吹き込んでいる点に拠るところも大きい。ドキュメントによればはるか昔に乙事主と良い仲だったらしい。


シシ神

昼は人面の獣、夜はデイダラボッチの姿を持つ、もののけ達の長。劇中で一言も言葉は発さないが圧倒的な存在感を放っている。彼の森(出雲付近と想定される)とエボシ御前の大たたらとの対立と、永遠の命を与えるという彼の頭を狙う帝(天皇)の話が、本作の骨子となっている。触れた者の命を吸い取る、または傷を癒す能力を持っている。これはシシ神が自然そのものの象徴であり、人々の恵みとなる顔と、どこまでも狂暴に襲い掛かる顔を持ち合わせていることを表していると思われる。

最終盤、首を飛ばされたシシ神はドロドロの肉体を飛び散らせ、手当たり次第に命を奪いつくすカタストロフィに突入するが、そこまでの事態にならないと人々は争いを止めない、という宮崎駿の諦観の様なものが感じられる。(宮崎駿は少年時代に終戦を体験している。)


尚、本作の製作現場を追った全6時間超のドキュメント『もののけ姫はこうして生まれた』は、作品作りに携わる宮崎駿ならびにスタジオジブリのアニメーターの狂気にも近い苦悩を観れるので、アーティストの方には是非お勧めしたい一本です。確か『ONE PIECE』の作者、尾田栄一郎氏は『もののけ姫』に限らずジブリのこういったドキュメントを観ると、自分の作品作りにやる気が出てくるとか、確か週刊少年ジャンプの巻末コメントで言っていた気がします。恐らく上には上がいるって感じなのでしょうな。


おわりに

『もののけ姫』は非常に重層的な作品である。私の尊敬する映画評論家の町山智浩氏は、良い映画の条件として「一々細かい説明をしない映画」「明確な答えを示さない映画」としている。

この作品は良い映画には良くあるのだが、観る度に新しい何かを発見することがある。例えば所見で、エボシ御前の複雑なバックグラウンドや、大たたらを取り巻く地政学的問題(浅野公方や帝との関係)、そもそもの時代設定など、理解しきれない部分も多々あるだろう。宮崎駿は民族文化に非常に拘りが強い作家なので、その作品に込める隠れた設定は掘っても掘り切れないほど深いものがあるのだ。

また、本作は明確な答えを示してはくれない映画でもある。人間側の都合ともののけ側の都合を丹念に描写することで、明確な悪が主要登場人物には存在しない作品になっており、観た後も「果たしてどちらが正しかったのか」と考えさせられる。


この傑作を映画館で観れるのは今だけだと思うので、ちょっとでも観直しくなった方には、今こそ映画館に足を運んでほしい。


今後の演奏予定

新型コロナウイルスの影響により現在のところ未定です。

この世は成り行き任せ~主にジャズに関する思考の残渣

香川県を中心に活動しているアマチュアトランぺッターが谷野穣がジャズに関してアレコレ書き散らします。

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